水俣病の論考も重要だが被害者救済こそ最優先

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これは,2010年7月25日,大学3年生の僕が授業「現代科学技術と社会」の課題レポートに書いた文章.要するに「水俣病の論考も重要だが,被害者救済こそ最優先」が趣旨.周辺的事象を整理し体系的な解釈を与えるのは重要な仕事だが,それより被害者救済が劣後することは決して無いと再確認する議論だね.しかし相変わらず文章が下手でかなり読みづらい… 何言ってるのか分からない文章あるし… (節 3: 項 3: 文 4 とか)

元の文章では第2節「参考文献の内容の要約」は改段落がなく読みにくかったため,改段落を2箇所に追加し3項からなる節とした.同様に第3節「この文献への議論」の第3項「チッソの社員らによる…」と第5項「この言葉狩りの活動は…」も,それぞれ直前の第2項,第4項と混同されていたものを,議論の構造を鑑みて改段落して分離した.


0. はじめに

私が今期、この「現代科学技術と社会」の講義を拝聴した中でも、最も私の関心を引き付けた水俣病について考察を深め、レポートとする。

1. 課題設定の動機

私が水俣病に関するレポートを書こうと考えた理由、このテーマに設定しようと思った大きな契機は講義で視聴したあの記録映像だ。水俣病に関連した記録映像はNHKなどで時折特集を組まれ、放送されているのを見かける。しかし深く考えがあってチャンネルを回すわけではなく、それゆえにそのように偶然発見した特集をじっと見つめ、その音声を心で聞いて、自分なりの感想をもつ、などということはもちろん今まで一度もしたことがなかった。そのようなことを深く考える必要に迫られる環境になかった。だからこそ講義で視聴した記録映像には大きく胸を打たれ、感性を揺さぶる何かを感じ取った。その何かについての理解を深めるべく、このようなテーマを自ら設定した。

2. 参考文献の内容の要約

私はこのレポートを執筆するに当たって、水俣病に関して深い考察を与えている文献を参考にしようと考えた。そこでかなり以前に出版された文献ではあるが、当時としては相当の深度を持ったであろう、岩波新書の「水俣病」(原田正純著)を参考とした。この方面についてでは非常に有名な書籍のようで、当初の選定理由にも入手の簡便さが多少なりともあったかもしれない。しかし、読んでみれば選定理由はそれだけに止まらないことに気づいた。この著書の中で極めて印象的であったのは以下のような点である。

水俣病が発生し、有明海に衝撃が走ったのは西暦1956年と言われている。それからというもの水俣近辺では悲惨な症状を訴える患者が次々に現れ、その猛威は人々を震撼させた。チッソの悪意の言い訳の上に立ち、科学者たちがこの恐るべき奇病の原因を特定するのに要した時間、その年月は7年にも及ぶ。そして悲しいことに、単に問題を研究することや企業の利潤が目的であるかのように本質を見失い倒錯してしまっている場面が多く散見されたようだ。

しかしそのような重要な位置にある関係者、研究者がその他諸々の枝葉末節に拘り、本来の目的である被害者の救済という至上命題に関して疎かになってはいまいか。本末転倒という言葉をこの非常事態において体現してはいないかと。著書の中での印象的な主張を簡潔に言うならばこのようなことであった。僅かの落ち度もない市民、被害者を放置してはいけない。むしろ最優先に考えるべきであるのだ。選び決めた文献の読書を通じ、この意味において私は非常に感銘を受けた。

3. この文献への議論

水俣病は世界で始めての公害だそうだ。Minamataと書けば英語圏の人には何のことだか分かるという。日本にはmangaやsushiなど国際化してゆくこの時代においても海外に誇るべき素晴らしい文化を持っている反面、Hiroshimaを始めとする不吉な暗黒の歴史をも世界にさらしている。

肝要なこと、本質的なことは、水俣病は決して興味深い自然現象などではなく、浅はかな人類の引き起こした災害であるということだ。加害した者と被害した者が存在し、つまり苦しんだ人間がいたということだ。その者たちの救済をまず第一義にすべきなのは、現代社会における企業の責任として当然のことであるはずなのだが、あいにく当時にはそのようなCSR的センスはまだ存在していなかったようだ。

チッソの社員らによる原因究明の研究が行われ、そしてチッソ内部で自らの非を科学的証拠によって実証したのは先の文献にも示してあった通りである。それにも関わらず利潤のみを追求した末の責任の回避は、完全に周辺住民への配慮を欠いた行動であったといえる。長い目で将来を見据えれば、被害者への対策を講じないような企業からは当然消費者は離れていき、ゆえに経営は必ず近い未来には悪化する。その点においても本末転倒な対応であり、企業の目的の正当な達成の方法とは何かという問題への解答を示しているように感じる。

一つ最近読んだ別の文献に非常に興味深い考察があった。それは水俣病に直接関連することではなく障害者についての記事であったが、しかし全てに通ずる大切な教訓が含意されていたためここに記すことにする。昨今よく聞かれる、障害者の表記に「害」の字を用いるのは相応しくない、という主張を問題視していた。「害」には災害や公害などの悪いイメージが伴うからである、というのが一般的な主張の根拠であるとされている。「害」の字には悪いイメージがあります、しかし障害者は決して悪いわけではないのです、だからもう少し配慮した表現方法を使いましょう。これらの主張の思考回路を真に受けて順に辿ると、我々は論理の罠に容易く騙されてしまうことになる。しかしもう少しだけ深い思考、広い視野を持つと、これは大変愚かな主張であることが分かる。

この言葉狩りの活動は現実の障害者の方々に、何一つ実際的な利益をもたらしてはくれないのだ。確かに言葉による印象とは大きなもので、生物学における「優性遺伝・劣性遺伝」などの表現は意味による誤解が根強くあるのも事実である。しかし「害」を「がい」に変更したところで、果たして障がい者の暮らしやすい社会が形成されるだろうか。答えは無論、否である。必要なことは階段のそばにスロープを設置することとか、電車の乗り方の過程を確立することとかなのである。表記に関する問題を提起するほど発言力のある団体であれば、これらの課題を提起することもまた容易であるはずだ。ここに見られたのは論理のすり替え、本質の喪失だ。

これと類似のことが水俣病に関する一連の出来事の中にも含まれているのは、参考とした文献にもあった。水俣病の解決を過剰に急ぎ問題のみに接近しすぎたからこそ生じた残念な因果ではあるが、やはり被害者を置いては水俣病の解決には一向に近づかない。極論ではあるが、原因物質の特定こそされずとも水俣の地域に患者が存在しなくなるのなら解決の段階を踏んだことになるのだ。そのところの意識を失っては、研究者が問題解決への重要な立場に立つことに意義はない。研究者が本質を見失うのは、障害者の介助に関わる団体が表記に関してつべこべ言うのと非常によく似ている。このような状態はかなり無意義な構図になるであろう。

4. 考察に際する感想

文献を読み、自分になかった情報や思想を取り入れる工程はたいへん面白く、レポートを書く上での大きな地盤となったことは明白である。その点で優れた参考文献を選定できたことは少なからず自負している。また既知の知識と新たな資料を脳内で統合し、整理してレポート上に書き出す作業も、自らの考えと公害問題を改めて見つめ直す最適な機会となったことも言うまでもない。以上の考察を進めてきて、やはり人間を考えるということや、理系的な能力の真髄である本質の理解というものの重要性が強く感じられた。

参考文献 

岩波新書 『水俣病』原田正純 著