「考えさせるデザイン」って,苦しい言い訳に思える

「デザインコンセプトを他人に説明するなら,どういう文章になるか」っていうのは考えておいたほうがいい。

焦点は「問題解決」より手前にある「問題発見」?
例えば、デザインコンセプトが「コミュニケーションのハードルを取り除いていくこと」である作品のことを考えてみよう.それらのハードルを「取り除く」ためには,それが「存在してることを認識」しなきゃいけないね。コミュニケーションの課題にはいろいろあるけども、そのうちの1つは文字が読めないという「ディスレクシア」だね。

僕の自作フォントはディスレクシアの患者を治療するものじゃもちろんない.むしろ逆で、ディスレクシアじゃない人たちに対して、「ディスレクシアというものが存在します」ということを伝えるデザインになってる。伝えることによってディスレクシアじゃない人たちに対して、ディスレクシアが存在するということを知らしめて、コミュニケーションのあり方について考えるきっかけを提供する。
メッセージを,具体的な指示に落とし込みたい
でもデザインのコンセプトとして「考えるきっかけを提供する」って,圧倒的に訴求力弱いと思う。考えるきっかけを提供したあと「どう考えてほしいのか」までちゃんと射程に入れないと、弱い。ということを受けて,じゃあ僕は,僕の自作フォントを見た人に何を考えてほしいか。僕の自作フォントを見た人がディスレクシアについて知った結果、何を考えてほしいのか。そこまでちゃんと定義しないといけないね。
もしそれをうまく定義できたら,それが僕の自作フォントの1番重要なメッセージになるだろうね。「情報を文字媒体によって表現しろ」ということでもなく,かといって「画像で表現しろ」ということでもない。もっと普遍的な言い方を選ぶなら「アクセシビリティに配慮せよ」とか。「ユニバーサルデザインがどうあるべきか?」ということについて、問題提起をしているのかな。
「問題提起」という投げっぱなしの態度で開き直ること
僕はデザインが問題提起で終わってるんじゃ駄目だと思うんだよね。答えまで提示してデザインだと思う。でもスプツニ子!っていう人がいて、その人はメディアアーティストだし研究者だったりするんだけど、その人は「スペキュラティブデザイン」とかいうのをよく言ってる.それは「問題提起をするデザイン」っていうもの。僕のデザインのコンセプトとして,解答を示す代わりに,スペキュラティブデザインの概念を借りてくるでもいいかなぁ。
スプツニ子!が言ってるスペキュラティブデザインって何かっていうと (というか別にスプツニ子!が言ってるんじゃなくて、もとはといえば別の誰かが言ってるんだけど) ,それは「問題を解決するためのデザイン」じゃなくて、「問題を提起するためのデザイン」というようなもの。こうして考えてみれば,僕の自作フォントのコンセプトはまさにそれっぽいかな。じゃあそういうことにしとこうかとも思える。僕の自作フォントは課題解決しないから,そうやって開き直ってみるのも手段の一つかも知れない。本意ではないけれどね.