KY再論
そうでなくてはいけない、というわけではない。
でもそうであったほうが落ち着く。
そして僕たちはみんな落ち着きたいと思っているはずだという前提を、一人一人が独りよがりに決め付けて暮らしている。
予定調和。
コンテクストを察する自然。
『一人一人が独りよがりに決め付けて』ここが厄介だ。全体をマクロに見ると円滑な社会に見えてしまう。
しかしミクロに見ると違う。偽りの円滑性。実際に存在するのは暗黙の了解の強要。質の悪いことに、それが全員。
勝者が即ち正義なのであるから、民主主義を採用する我々にとっては多数派が正義ということになる。
つまり無茶な要求を一人一人が独りよがりに強要している環境では、空気を読むことが正義であり、空気を読まないことは悪である。
でも自然法の理念では、相手に自分の思想を強いるのはいけないことだとしている。自然法ってのはキリスト教から生まれた人権思想みたいなやつね。
だから、(あくまでもこの前提を置くなら、だけど)自然法に則るなら、空気を読めと強いるのはいけない。
日本の『空気を読む』という国民性に関しては、自然法は民主主義と矛盾するのだ。
このことから分かるように、この件に関して日本人は以下のうちいずれかを捨てる必要があるのだ。
一、自然法
一、KY
さあどうしようか。困る?
そんなことより。
それに結論を出さないまま、なあなあにして社会性を保っている日本人は、やっぱり世界的にみると神秘的(換言すると理解不能)な民族なんだろうね。