人は自由であるべきか?

自由に関する,とても興味深いやりとり.(長文です)
全部引用します!(1/8)
Twitterのサービスはいつ終了するか分からないけど,この文章は残すべき示唆を含む重要な会話(とか言って「じゃあLivedoorブログはサービス終了しないのか?」と問われると困ってしまいます笑).ここに全文を引用します.
哲学的しろくま @eis_baerchen
哲学的しろくま @eis_baerchen
「他人を殺す自由もあるのか!!」
「(殺すのは他者の生命侵害だから自由に含まれて)ないよ」
「矛盾してる!! 自由にしたら北斗の拳みたいな世界になる」
「(殺人や傷害や窃盗を禁止するのが自由なんだから)ならないよ」
「なる!」
みたいな
哲学的しろくま @eis_baerchen
ユキノシバリ @yukinoshibari
極論はともかくとして、とをどう区別するか?というテーマが残るところが実は難しいんじゃないでしょうか?
上手に区別しないと過剰に自由が制限されることもありえるので。
哲学的しろくま @eis_baerchen
ユキノシバリ @yukinoshibari
でも、政治的には新しい権利を定義することが自由を制限する名目になりうるので、政治的に追加されたも守れということになるとご都合主義になってしまう
線引きがないと自由の概念が共有できなくなっちゃうのではないかしら
ユキノシバリ @yukinoshibari
それらはきっと自然法なので、そもそも国家や政治はいらないという別の議論になってしまう。
哲学的しろくま @eis_baerchen
ユキノシバリ @yukinoshibari
自由の範囲を議論するというより、無政府資本主義を受け入れるかどうかがテーマになる、ということですね。
哲学的しろくま @eis_baerchen
ユキノシバリ @yukinoshibari
極論から確認したくなる人がいるのは、制限の最大限度がはたして存在するのか最初に確認したいからじゃないかと思ったのです。
引用終わり
法哲学の人(2/8)
僕は数学や物理が好きで学生の頃はたくさん勉強したけど,一方で歴史や倫理についてはなかなか興味が持てずにあまり体系的な勉強をしたことがない.いや,あるんだと思うけど記憶にとどまってないのです.だから人文系の哲学,法学,歴史などに関してたいてい疎い.今となってはそれらの分野の面白さに気付き始めましたから,いくらかの興味を持ってニュースとかウェブ記事とかを読んでる.
その活動の一環と言ったら大袈裟だけど,最近Twitterで「哲学的しろくま」さんをフォローした.この人は(プロフィール欄に個人情報を書いてないけど)おそらく大学で法律・哲学(?)を専門にしてる教授じゃないかと勝手に推測してます.一人称が「おいら」とか「おじさん」とか個性的でとても面白い人.

ほとんどが思い付いたダジャレを垂れ流すためのツイートなんだけど,ときどき法律の知識に基づいた深い考察と見解を展開してくれてそれが面白い.俺は法律のことも知らないし,まして法哲学なんという言葉はこの「哲学的しろくま」さんが言ってるのを聞いて初めて知ったくらい.意味は調べてないけど,文脈から適当に推測してるね.
で,この「哲学的しろくま」さんのツイートと,それに対する(俺はフォローしてないから知らない人だけど)「ユキノシバリ」さんのやりとりが面白かったから取り上げるわけです.(イントロが長い笑)
「公共の福祉に反しない限り自由」(3/8)
僕は先述の通り法律的,哲学的な知識背景は全くと言っていいほど持ち合わせてないんだけど,「哲学的しろくま」さんのツイートを見てると,どうやら俺の思想,主義,信条は「自由主義」というものに分類されるものであることが分かってきた.僕の信条を,哲学的しろくまさんの言葉を借りずに表現するなら次の通り.
「人間は,公共の福祉に反しない限り自由であるべきだ」
「公共の福祉」などという意味不明な言葉を使って表現してるのは,そのほうが端的に表現できるからというのが一つの理由と,もうひとつは単に「言っててカッコイイ」という理由です笑.いやまぁ,法律を勉強してる人にとっては「公共の福祉」は全く難しい言葉じゃないんだろうけど,俺にとっては難しい言葉なんですよ!最近やっと意味をつかめた気がしてるという段階.
そもそも「社会」には「人間」しかいない,と俺は思ってます.「何を当たり前のことを」と思うかもしれないですけど.でもよく言うでしょ,例えば「そんな態度が社会で通用すると思ってんのか!」とか「あんまり世の中を舐めないほうがいいぞ」とかさ.俺はそういう表現が凄くしっくり来なくて,違和感を強く覚えるんです.だって,とある人の態度を許容したりしなかったりする主体は誰?「社会」というのは単なる総称に過ぎなくて,人の態度を許したり許さなかったりする主体は社会の構成員たる人間だよね.
(それは世間が、ゆるさない)
(世間じゃない。あなたが、ゆるさないのでしょう?)
太宰治 人間失格
「社会が許さない」はありえない.社会は人間全体の総称であって,「許さない」の主語たりえない.「許さない」の主語は「俺」なり「お前の上司」なり「隣の佐藤さん」なりであって,「社会」という判断の主体は存在しないよね.「俺」と「お前の上司」と「隣の佐藤さん」と,それ以外の人たちが大勢集まって「社会」が構成されるだけ.「社会」という物を考える主体がさも存在するかのように語る先の例のような陳腐な表現に,俺は強く違和感を覚えるのです.「社会」なんてないよ,あるのは「人間」だけだよ.と思うわけです.
という前提を受けて(これは前提でした...),「公共の福祉に反しない」をもっと平易な言葉で言い換えると「他人に迷惑をかけない」という意味だと認識しています.「公共の福祉」とはおそらく「社会」を「整える」ための概念だと思う.で「社会」はそのまま「人」と言い換えられるので,「人を整える」.これだと意味不明だけど,「人の,様々な状況を良くする」という意味だね.様々な状況って,経済状況とか腹の減り具合とか就業状況とか健康状態とか,すべての状態です.で,それに「反しない」というのは「人の状況を良くするための努力を妨げない」ということ.あわせて意訳すれば「人の邪魔をしない」という意味...だと俺は解釈してる.
「自由」は縛りになる(4/8)
それで,最低限「人に迷惑をかけない」という条件さえクリアしてれば,俺は何をしてもいい.完全に自由.好きなように行動して,好きなように生きる.その権利があるし,それが正しい生き方だし,それがあるべき人生観だと思ってる.これは他人にも当て嵌まる.あなたは最低限「人に迷惑をかけない」という条件さえクリアしていれば,あなたは何をしてもいい.完全に自由.好きなように行動して,好きなように生きる権利があなたにある.俺はそう思ってる.
勘違いしちゃいけないのが,俺の自由は「公共の福祉に反しない限り」という制限付きの自由.その下で自由なのです.俺は自由だけど,他人が迷惑を被るような行動はとりません.「他人が迷惑を被るような行動」は俺の「自由」に含まれてない.「自由」というと,「何をしても許される権利」みたいな都合のいい解釈が蔓延してるけど,俺はそう思わない.俺が思う自由は「公共の福祉に反しない限り」という制限がつくので,「何をしても許される権利」とは全く異なる.
自由を踏まえて,「利己」を再定義(5/8)
その上で,俺は利己主義.利己主義というと悪い思想と思われがちだけど,本当は違う.自由な利己主義とでも言おうかな.例えば電車に乗っていて,目の前の人が落し物をしてそれに気がついてない.俺はそれを拾ってその人に知らせて渡す.これさえも俺は「利己的な行動」として数えます.
俺の中には自分なりの正義があって,それを俺は実践したい.実践したいのは俺の個人的な欲求で,誰に指図されたから行動するというわけじゃない.「人はこうあるべき」なんていう一般論に強制されてるわけでもない.単純に「俺が自分の正義を実践したいから」という理由で,目の前の落し物を拾って渡す.これは「自分の正義の実践のために」という極めて個人的な理由で行動してるので,つまりこれは利己的な行動だ,と見なすわけです.
一般的に言われる「利己主義」とは少し違うから違和感があるかもしれないけど,でも俺はそう考えるのです.他人に資する行動も「俺がそうしたいから,そうしてる」というだけ.俺が俺の欲求に従って行動してるんだから「俺は利己的に行動してる」と見なす.そんなふうに自分を評価してる人は多くないのかもしれない.ちょっと変わった世界観かもしれないことは認識してるからね.
全てを「利己的」と考えるメリット(6/8)
この俺独自の「利己主義」の利点は,他人に正義を強制しないこと.もし目の前の人の落し物を拾って渡すのが「俺の欲求」ではなく「人としてそうすべき常識」だとしたらどうなる?他人の落し物を拾うくらいなら「人としてそうすべき常識」と見なしても大して困らなさそうだけどね.
じゃあ「街にポイ捨てされたゴミを週末に拾って清掃する」のは「人としてそうすべき常識」かな?あなたは週末に街に出てゴミ拾いしたことある?「世界の飢餓に苦しむ子どもたちを助けるためにUNICEFに募金すること」は「人としてそうすべき常識」かな?あなたはUNICEFに募金したことある?もし,それをしたことのある人たちがあなたに向けて「ゴミ拾いは人としてやらなければならない常識だ!」とか「UNICEFへ募金をしないなんて非常識だ!ひとでなしだ!」とか言ってきたら,あなたはそれについてどう感じるかな?
「人としてそうすべき常識」は少なければ少ないほどいい.「週末を(ゴミ拾いせずに)家でゴロゴロ過ごす自由」とか「自分で稼いだお金を(UNICEFに募金せずに)自分の趣味のために使う自由」とかが侵害されずに済むからね.だから俺は,自分の全ての利他的な行動について「人としてそうすべきだから」と思いながら行動しない.「俺がそうしたいから」と思いながら行動する.
利他的な行動も,利己心の現れだと考える.そうでないと,「利他的であれ!」とか言う誰かの変な主義に俺の自由を侵害されかねないし,俺も他人の自由(他人にも利己的に行動する自由がある!)を侵害しかねないからね.そういうわけで,俺の全ての行動は「利己的な行動」なのです.結果的に利他的に見える場合も,俺の個人的な欲求(利他的な行動がしたいぞ!)に従って行動した結果に過ぎない.あくまでも「利己」を追求した結果である,と見るのです.
「自由」とは何か?(7/8)
(やっと話が戻ります笑)でも,「哲学的しろくま」さんは,きっと俺と同じ世界観を持ってるね.彼のツイートを読めば読むほどに,「俺と認識が同じだ!」と思っていた.そして俺の思想はまさしく哲学の議論の俎上に載るような思想そのもので,きちんと名前が付いている.「自由主義」というものらしい.俺はまるでNEETがNEETと名付けられて一種の安心感を得るような,変な安心感を得たね.「俺の思想は特殊じゃない.当たり前にこの考えに至ってる先人がいる!そしてそれには名前まで付いてる!」
自由への認識が変わった.俺は今まで「公共の福祉に反しない限り自由」と思っていた.でもそもそも「自由」の定義に「公共の福祉に反しない限り」という制約は含まれていたんだね.ミル(誰だか知らないけど笑)は「自由」という概念を「他者を侵害しない限り,自分に関することは自分で決定できる」と定義したそうだ.もう全く同じでびっくりするね.俺は思想家じゃないか!
重要かつ面白いことは,「全ての人間が自由になると,俺は人から迷惑かけられなくなる」という不思議な結論.なぜなら「自由」は「他者を侵害しない」という約束のもとで成立してるから.つまり人は「自由」である限り,他者を侵害することができないんだね.他者を侵害してしまったら,それは「他者を侵害しない限り」という前提条件を破ったことになるから,それは「自由」な行動ではない.この論理,分かるかな...俺にとっては,自分の思想とこの論理はがっちりぴったり合致するから何一つ不思議じゃなく,すんなり理解できるし了解できるんだけど.
極論,そしてまとめ(8/8)
この先は以上の理屈を踏まえた上での発展的な話題.経済に目を移すと,全ての人が自由になれば「国家」も「通貨」も不要.俺はそういうこともありうると思ってたけど,これについても哲学的しろくまさんが説明してくれてます.「無政府資本主義」は「自由主義」の究極にある,と.俺はこれらの哲学的しろくまさんとユキノシバリさんの議論を見て,非常に納得がいったし,自分の思想を相対化できた.「無政府資本主義」が何を意味するのかを説明するのは難しいけど,俺はすんなり理解できたんです.だっていつも「それも一つのあり方として,可能性があるよね」と思ってたからね.
俺の思想を説明するために「利己主義」という単語を出した.でも哲学的しろくまさんとユキノシバリさんの議論中では登場してない単語だね.でも彼らなら俺の言いたい意味が即座に了解できると思う.同じ思想,世界観,人生観を持ってる人がいることを確認できてよかったし,それに名前がついてることまで知れたのはとても興味深かった.