愛と狂気の日本文学レポート「芥川の『袈裟と盛遠』再解釈は,時代の苦悩の投影である」

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これは,2013年,大学4年生の僕が授業の課題レポートに書いた文章.相変わらず要旨が不明瞭なので,見出しを新規に追加して本文を「再解釈」しています.整理するに当たって内在批評 (作品の構造や技巧などへの批評) と外在批評 (作品の社会的影響などへの批評) という言葉を初めて知ったりしてるので,過去の自分の文章を再解釈する営みは意外と学びがある👍笑

1/2/3 段落は外在批評 (作品の社会的意義などの議論) で,4段落が内在批評 (描写自体への評価) という段落構成になってる.こうして整理すれば見通しが (少しは) よくなるけど,これを構成もなくベタッと徒然に書いて提出してるんだから,大学生当時の僕の作文能力は低いと言わざるを得ない.ギリギリ意図を読み解けたので良いとしましょう…

  1. 800年を隔てた名改作『袈裟と盛遠』を味わう
  2. 内省的な心理描写から読み解く当時の苦悩
  3. 時代への洞察から再解釈した芥川の独創性
  4. 苛烈な逡巡が描き出す愛と狂気のリアリティ

800年を隔てた名改作『袈裟と盛遠』を味わう

今回私は袈裟と盛遠のテーマについて議論する。『源平盛衰記』での文覚発心と、芥川によるアレンジである『袈裟と盛遠』との比較を行う。授業中に配布された資料のうち参考にしたものの番号は、12月5日配布の第8回、12月10日配布の第9回、12月19日配布の第10回の合計3部である。

私は芥川によるアレンジ版『袈裟と盛遠』を読んで強く印象的だったのは、明治時代の知識人達の苦悩の様子だ。私は日本史や世界史に詳しい訳ではないが、高校レベルの知識なら持ち合わせているので、それと照らし合わせて持った印象だ。それと比較すると、源平盛衰記での語り口はそれなりの独自性は持ってはいるものの、やはり大きな時代のうねりに飲まれた人間の書いた作品という感じはしない。平和な時代に生きた人間が、趣向を凝らして書いた作り物語、といった感じだ。12世紀に成立した物語を芥川がアレンジしたこの作品は、愛と狂気を絶妙に織り込んだ非常に興味深いものであるが、その理由について述べたいと思う。

内省的な心理描写から読み解く当時の苦悩

江戸時代、日本は鎖国体制を敷いて海外の文化と断絶した生活を送っていた。それは安定したものであったし、浦賀へのペリー来航まで人々は比較的小さな変化の中で生活していたであろう。しかしそのあとで開国を迫られた日本は、大きく体制を転換する。今まで正しいと思っていたことが変わり、世界と言う見たことも無い大きな相手を目の当たりにして、日本人は戸惑ったはずだ。そしてその戸惑いから、「自分とは何か」、「伝統とは何か」を模索した。その活動の痕跡が芥川竜之介や森鴎外、夏目漱石などの作品から見て取れる傾向にあると思う。ちなみにこのような、特に明治時代の文豪の作品に多く見られる「自分とは何か」、「伝統とは何か」といった自己反省的な描写の多い作品が私は好きで、夏目漱石の『こころ』は中学生のときに国語の教科書で読んで以降、深遠な心理描写に惹かれて単行本を買ってしまったほどだった。

そしてこの傾向は、今回取り上げる『袈裟と盛遠』においても例外ではない。迷える明治の知識人の苦悩がありありと描かれている。もちろん登場する人物は明治時代の人間ではなく、中世以前の人物であるが、読み手に合わせた趣向がこらされている。物語の起承転結や発生した事実そのものにスポットライトを当てるのではなく、むしろ人物の内面を精密に描写し、悩みあぐねる姿が非常に印象的な作品である。というのも、そもそも物語自体は既に『源平盛衰記』の中で完成されているのであるから、付け加えるべき要素はそこにしか見当たらないとも言える。まさにそこがこの作品を私が評価したい点である。

時代への洞察から再解釈した芥川の独創性

もしも芥川でない誰かが『源平盛衰記』の袈裟と盛遠にまつわるエピソードをアレンジしていたらどうだっただろう。その具体例については授業で触れたものがその答えであるが、そのどれもが芥川によるアレンジほどに、人物の内面に迫っていなかった。そしてそのどれもが大きく物語を変更するものでもなかった(それもそのはずで、物語を大きく変更するならば「袈裟と盛遠の話のアレンジ」という位置づけが無意味になってしまうから)。つまり極端に言ってしまえば、単なる表現の書き換えにすぎなかったということだ。芥川によらないアレンジはほとんど意味を為していなかったように思える。

しかしその点で芥川のアレンジは異なっている。物語を大きく変えるでもなく、単なる表現の書き換えにとどまるでも無いアレンジであるからだ。それは明治時代と言う大きな時代の狭間に生まれた芥川の幸運による所もあるが、彼のアレンジは人物の内面を大きくクローズアップする描写が非常に新しい。夏目漱石の『こころ』で、先生とKが複雑な、崇高な、それでいてどこか稚拙な心理戦を繰り広げたのと同じように、芥川による『袈裟と盛遠』は、二人の自己矛盾をはらんだ複雑な心理が見事に描かれている。矛盾した心理描写と、二人の紙一重のすれ違いを非常に見事に描ききった芥川の表現の巧みに感心し、それこそがこの作品がたかく評価されうる理由のひとつであると思う。

苛烈な逡巡が描き出す愛と狂気のリアリティ

愛と狂気についての表現が、人物の内面を濃く描くことによって見事に表現されている。たとえば盛遠の独白のシーンでは、細かい感情の変化のきっかけは無視して置いておくと、盛遠は袈裟を愛している¹がために、袈裟を心の底から蔑んでいる²と認識する。そして彼はまた、袈裟を強く蔑むが故に、袈裟への愛情に気付かされる³のである。この相反する2つの感情を一繋がりの一本の思考の軌跡のうちに網羅し、盛遠の矛盾した感情を表現し切っている。一つの仮定から結論へ、その結論から新しい結論へ、と次々に展開していく盛遠の複雑な感情は、ある仮定から出発したはずが、その逆を導いてしまう。愛していないのだ、蔑んでいるのだ、という立場から、いや愛しているのだ、という結論へと舞い戻るこの表現力によって、この作品の「愛と狂気」性は担保されていると言ってもよいだろう。芥川の持ち味である「明治時代の知識人の苦悩」の表現力(人物の心理の動きを重視する)と、袈裟と盛遠の「愛と狂気」性は相性が抜群によく、先に述べたように盛遠の愛と狂気、その右往左往する様子が緻密に描かれて、その苦悩が生々しく読み取れる。

物語の言葉遣いを書き換えた程度ではこのリアルさは生まれなかったであろう。物語の改変でもなく、言葉の書き換えでもない、新しい風が吹き込まれた「袈裟と盛遠」の物語は、芥川の技量によって、より印象的な「愛と狂気」を体験させてくれる。

  1. 12月10日配布の資料No.2の18行目
  2. 同資料No.3の77行目
  3. 同資料No.4の111行目

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