人間環境の計画史レポート「美と統制の不本意な関係: 逸脱の試みと,その回帰」

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これは,2012年,大学3年生の僕が授業の課題レポートに書いた文章.要約すると「『美的基準の思想統制』と聞けばおぞましいが,美は根源的に統制に依存しているのである」という話.取り上げる具体例や議論の構成に拙さを感じるものの,全体としては簡潔に主張がまとめられていて読みやすい小論文だと思う.見出しは無かったので,今回の転載に当たり新たに追加しました.

  1. 目的指向デザインに起きた収斂の事例
  2. 文化的制約はデザインの指向を方向づけた
  3. 制約が実現する調和の美
  4. 美に向き合い,統制に立ち戻る

今回は先生方の話を聴き、その中で反対意見のあるものについてその反対意見と根拠を示しながら論ぜよ、という課題である。私はある先生の仰った「これが美しい、と決め付けるのは思想統制だ」という考えについて少し論じてみたいと思う。

目的指向デザインに起きた収斂の事例

現代の人間環境は概ねよく整備されており、多くの人が生活しやすい環境になっている。しかしながらバリアフリー化していない駅があったりして、完全とは言えない。(完全な人間環境とは何か、ということは一先ず無視するが。)

たとえばモダンな施設、設備、道具などで、人間工学的に、視覚的に、また環境面への配慮的に優れたデザインのものがある。それらの多くは、丸みを帯びていたりして非常に有機的で私たちにとって使いやすい。具体的には、開けやすいゼリーのビニールの蓋だったり、パソコンのマウスだったりである。丸っこいデザインのものが多く存在する。

この傾向は何を目指してこうなったかを考えると、「人間にとって使いやすいものづくり」を目指したからそうなったといえる。ある基準をもって、つまり方向性を明確にしたものは、ある程度似通ったデザインに落ち着くことが多い。これは考えてみれば当たり前のことで、同じ方向を目指すのだから、同じような見た目、デザインになるのは当たり前のことである。

文化的制約はデザインの指向を方向づけた

建築や身に着ける道具など、人間は歴史的にいろいろな種類のものを生み出し、作ってきた。人間の生み出した建築や道具の多くはある思想に基づいて製作されている。その思想は地域や地方によって異なる。すなわち、イギリスならイギリス風のものの考えかたに基づいたものづくりが行われてきたし、日本なら日本風の考え方に基づいて、建築や道具を製作してきた、ということだ。余談にはなるが、「その地域特有の思想」とは、具体的には「その地域の(土着の)宗教」と読み替えてもほぼ差し支えない。

たとえばキリスト教圏ならば、唯一神のための贖罪とか信仰とか懺悔とか、そういう思想の下に教会やペンダントなどが生まれたし、戦う武器も同じ思想の下に、つまり同じ発想であれば同じような武器が生まれる。だから日本とヨーロッパの建築は似ていないけども、ヨーロッパの国同士では少しずつ違うがやはりおおむね似ている建築が生まれる。

伝統や傾向を美と呼ぶのではないだろうか。ある思想の下に構成されたものはまとまりをもち、意味を持ち、だからこそ美しいのではないだろうか。

制約が実現する調和の美

私の反対意見は要約するとこのように述べることが出来る。「制約のない下で生まれたものは無表情だ。」

「これが美しいかどうかは分からないけれど、とりあえずこのようなものをひとまず『美しい』とか『良いもの』ということにしてみましょうか」、という一見非合理な前提を持ち込むことで、逆に全体に統一感をもたらし、結果として本当の『美』『個性』を生み出すのではないだろうか。

たとえば私の住む町を、(いったん今までの歴史はすべて捨てたとして)再振興してみようかと考えたときに、「完全な美とは何かは分からないけれど、とりあえずすべての建築は木造二階建てで、道路側に窓を付けることを義務化して、電線は地下に埋設して街づくりをしようか!」という方針を定めると、街づくりの方針が分かりやすく進行がスムーズになることも考えられるし、しかも全体に統一感が生まれ美しい街並みを結果的に構成できるはずだ。

また反対も考えてみる。件の先生のおっしゃるような「美とは個人の感覚だから統一的には決定できない。個人が思い思いの美を追求して街づくりを行う。」という思想に基づいて街づくりをしてみる。狭い視点から見れば各々が納得するような美しい町ができることだろう。しかし全体を眺めたときに、その町は美しいだろうか。美しいものを寄せ集めただけでは美しくないだろう。全体を調和させて初めて美しい。

美に向き合い,統制に立ち戻る

これが美だ。と決め付けるのは安易には受け入れがたく、反対する気持ちを持つ人もいるかもしれない。しかし、現実の世界に存在する美しい街をイメージしたときに、思い浮かぶ町はなんだろうか。パーツが美しい街だろうか。それとも調和の美しい街だろうか。現存する美しい街は調和が美しい街であろう。なぜ調和が美しいのだろうか。けっして美しい街づくりを考えて美しくなったのではない。全体を包括する統一的な思想が存在して、それに基づいた街づくりが行われたからこそ、全体の傾向がそろい、個性的でありながら美しい街並みを構成するにいたったのだ。

その点で、日本は統一的な思想(宗教)がないために、個人の美を重んじるというような倒錯した考えが存在していて、非常に不幸であるとも言える。しかし美しさとは文化の中で育まれるものであるからして、制約なしには生まれない。完全な自由からは、美は生まれないのである。いろいろな制約の下で進化を遂げた生き物たちが、美しい生態を持つのと同じように。つまりある程度の制約、統制は、結果的に自由に美を追求させるよりもすばらしい美を生み出すために不可欠なのである。

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