科学者4人の足跡に見る電磁気学 成立史
これは,2012年8月1日,大学4年生の僕が授業の課題レポートに書いた文章.4人の偉大な科学者による電磁気学の成立までの足跡を,参考図書『客観性の刃』を整理しながら概観したもの.本の内容の言い換えなので独自の考察はほぼ皆無だけど,事実の知識として読む分には面白い文章かもね.レポートに授業名が明記されておらず,何の授業なのか不明なのが玉に瑕か…笑.

当時から見出しを振って,レポート全体の構成を意識してたのは高評価.最後の「段落ごとの主題」で,各段落の主題を1文に要約してるのも良い (先生の指示があったのかな?).それにしても異様に長い.「段落ごとの主題」を除いても5000字を越えてる…!
- 始めに
- 本文
- 方針
- ヤング
- フレネル
- ファラデー
- マクスウェル
- まとめと感想
- 段落ごとの主題
1、始めに
私は今大学4年生で、大学院入試の勉強のさなかである。勉強の内容は主に物理と数学なのであるが、物理の勉強にあたって、非常に電磁気学が面白い。電磁気学は古典物理学の中では後期に(つまり19世紀半ばごろ)に成立した分野であるが、特に興味深いのは、粒子の運動を記述するのとは異なり、記述の対象が「場」という概念であるところだ。
ニュートン(Sir Isaac Newton, 1643年1月4日 – 1727年3月31日)の力学は主に粒子を扱い、また粒子は「質点」という理想化された対象として記述される。「質点」は現実には存在せず、古典力学を適用するような規模で考えるならすべての粒子は体積を持つ。その点では厳密に言うと古典力学の対象も概念であると言えなくもないが、しかし粒子という普段の生活で見慣れたもののモデル化であるから理解が比較的容易であろう。また、その成立の経緯も薄らと想像できる。
しかし電磁気学の記述対象は「場」であり、それは完全に目には見えない。また電気や磁気を安定的に供給するのは容易ではなく、実験もかなり困難を極めただろうと思う。今、21世紀の学生が学ぶには非常に洗練された理論体系で分かりやすいが、その成立過程はどのようであったのかに興味を持った。目に見えない対象をいかに記述するのか、目に見えない対象に働きかけ、検知し、法則を見いだし、理論を構成する過程を知りたいと思い、電磁気学について知らべた。
2、本文
2−1、方針
電磁気学の成立までを、順を追って見ていく。まず始めに、「熱とは何か」「光とは何か」という問いから始まる。熱や光は身近なものであるが、その正体は知られていなかった。熱は粒子であるのか、それともカロリックと呼ばれる流体なのか、という議論があったし、光も、それは粒子なのか、それともエーテルという流体中の振動なのか、という議論があった。これらは同じくらい頻繁に語られたテーマではなく、熱よりも光についての方が人々の関心は高かったようだ。カルノー(Nicolas Leonard Sadi Carnot、1796年6月1日- 1832年8月24日 )は熱と光の類似性と相違を指摘し、仮説の矛盾を唱えた。熱と光は互いによく似た性質を持ち、一方が粒子であるなら他方も同じであろう、またその逆もしかるべきだと考えたのだ。そして光や熱、そして磁気への研究が興った。
物語の主要な登場人物は4人だ。ヤング、フレネル、ファラデー、そしてマクスウェルだ。マクスウェルはその名を電磁気学のマクスウェル方程式に残し、電磁気学を完成した体系へと導いた人物である。彼らの足跡を追うことで、電磁気学がどのように成立したかを辿る。
2−2、ヤング
始めはヤング(Thomas Young, 1773年6月13日 – 1829年5月10日)だ。彼はイギリス人で、時代で言うと最も古くに、光についての綿密な研究を行った人物の一人である。彼は目の前に一本の毛を置いたり、毛の束を置いたりして、蝋燭の炎の見え方がどのように変化するかを調べた。そして彼は光の干渉についての定性的な知見を獲得した。

彼は非常に博識であり、また工作の技術にも長けていたから実験には向いていた。始めは生理学から物理学へ転向した彼は、光の研究をニュートンに倣って行い、薄層の色に関するニュートンの研究を綿密に調べた。そして第一の論文でホイヘンス(Christiaan Huygens 、1629年4月14日 – 1695年7月8日)の理論を用いた。光の干渉実験をも行い、その結果を論文に著し、自身の理論の正しさを確信した。
その理論からは屈曲と混成層効果という面白い現象が現れた。それについても実験を行い光の屈曲を示し、混成層の実験でも自身の理論に有利な結論を得た。それまで渾然としていた「光とは何か」に対する答え、粒子なのか波なのか、に対してそれは有効な結論であった。混成層での光の振る舞いは粒子説では説明がつかず、それ故にヤングは光が波動であることを実験的に示したのだ。
有名なヤングの干渉実験は完全に再現性を備え、スタイルを確立したので、光に関する研究は完成したかに見えた。事実、光の波動と粒子の運動を完全に区別したのがヤングの功績であろう。しかし光学はまだ終わらなかった。
2−3、フレネル
ヤングと時をほぼ同じくして、光の波動説を有力に唱えたフランス人がいる。その人物がフレネル(Augustin Jean Fresnel、1788年5月10日 – 1827年7月14日)である。フレネルがヤングよりも進んだ科学者である理由は、彼が光の波動説に数学的定式化を与えていたからだ。光の波動説を発表するのがヤングよりも何年かだけ遅かった。そのために彼の科学史的な評価は高くなく、実際私もこれを調べるまでは名前すら知らなかった。
彼は光の波動の震央を想定することで波の伝播を定式化して、当時既にヤングの実験からも知られていた、光の干渉の双曲線軌道を予想した。また当時1818年にアカデミーによって公開された光に関する二つの問題を自身の理論により解決し、実験事実に合う正しさを示した。

フレネルはエーテルの運動から生じるいかなる結果も光の伝播理論に含まれると考えた。つまり、自身の理論を改良することで、光学現象を例外なくすべて記述できるはずだと考えたのだ。しかし彼の理論はまだ、干渉に関する法則を満たすことができても、光の偏光に関する法則を説明できていなかった。そこで彼はアンペール(André-Marie Ampère, 1775年1月20日 – 1836年6月10日)のアイデアを採用し、定式化に取り組んだ。アンペールのアイデアとは、光の波は互いに垂直に交わる二つの横波の合成であるというアイデアだ。その定式化に成功しても、彼は自分を納得させることができなかった。そのモデルは実験事実には合うかもしれないが、モデルの原理が不明なのである。実験事実に合うような都合の良い真理をただでっち上げただけでは満足しなかったのだ。彼は双軸結晶の屈折諸効果の予言で自信を得ていて、へたな理論では納得がいかなかった。
彼は三つの平行な粒子の列というモデルを考え、3次元輻射光線の束を解析しようとした。理論を構築する際のそれぞれの仮定は実験法則に従った。彼は光がエーテル中の横波であるとしたが、ヤングはこれに疑問を投げた。縦波は固体、液体、気体中を進むことができるが、横波は固体中のみ進む。ならば空間を満たしているエーテルは固体であることになってしまうが、それはにわかには信じられない、と。ヤングは光の波動説を定性的にのみ示していて、定量的な数式化を行っていない。それで彼はフレネルの光の波動説の数式が理解できなかったと言われているが、確かにこの指摘は鋭いものである。
2−4、ファラデー
ファラデー(Michael Faraday, 1791年9月22日 – 1867年8月25日)は電磁気学の完成間近に活躍した。彼は体系的な教育を受けてなく、始めはデーヴィー(Sir Humphry Davy、1778年12月17日 – 1829年5月29日)の弟子として科学者の道を歩んだ。彼は化学の研究から光の物理学へ移行したが、彼が体系的な数学の教育を受けていたら、彼はより進んだ研究成果を挙げていたかもしれない。彼は論理ミスをほとんど犯さなかったし、科学的な感性に優れていたからだ。彼は結晶の研究もしていたし、電気や磁気は重力とも関係があるだろうと考えていた。

彼は1831年に変圧器を発明した。その10年ほど前から電磁気学は始まっていて、電気と磁気の関係が調べられ始めていた。彼は電気が磁気を起こすことを知っていたから、同様に磁気が電気を起こすはずだと考えた。そして電磁誘導を確かめ、化学的でない電池を発明した。幾重にも巻いた導線の中に磁石を入れたり出したり運動させると電気が起きるのだが、それ以前は銅と亜鉛などを溶液に浸して電気を起こし電池としていたのだ。その発明の中で、電気と磁気と運動は互いに直交し、一つを固定すると残りの一方が他方を誘導するという法則をまとめた。そして化学的電気、誘導電流、静電気など、当時別の電気と思われていたものを統一し、また電気分解という語を生んだ。化学的電池は、物質が分解される代償に電気を生じていることが分かったからだ。
彼は電気を粒子として扱ったが、他の理論との不整合に悩んだ。彼は1841年に過労によって衰弱したが、妻の厚い看病により克服し、研究へと再び戻った。病前は力線を方向の表現としてのみ扱っていた。図式に依って示された概念は分かりやすいものだからだ。1844年に電磁気の媒質の条件を正当に記述できない問題について発表した。原子論が正しいなら物質と空間は別である。物理現象が力の中心であることを認めていたが、彼は認めることを拒んだ。物質が全空間を満たしていると考えたからだ。彼はまた古代からのテーマである原子と連続体の矛盾に至った。彼は自分のこのような科学的思想を述べたが、賛成は多くなかった。彼の思考は場の概念まで後少しのところまで来ていたのだった。
2−5、マクスウェル
ファラデーの試行錯誤をまとめたのがマクスウェル(James Clerk Maxwell、1831年6月13日 – 1879年11月5日)だ。ファラデーの法則を満足するような方程式系を作り上げ、電磁気学を完成させた。大陸の科学者は現象を要素に分解し微積分で解析しようとしていたが、彼(イギリス人なので大陸でなく島の人)はファラデー的な連続観を数式で表そうとした。それに成功した彼は1856年に『ファラデーの力線について』を著した。その中で、彼は電磁気に関して二つの相容れないモデルがあることを明記した。当面、空間の力線の連続性と電磁気的諸効果の成立する諸状況との問題があった。ファラデーの力線は全空間を線で満たすモデルであるが、マクスウェルはこれを改良し、観測的に認められる性質を詰め込んだ想像上の流体を提唱した。それを厳密に定義し、数学的に解析した。その際に逆説がいくつか考えられたが、ファラデーに反しない解釈を採りながら進めた。

電気緊張状態という概念は既に彼の第二の師であるトムソン(William Thomson, 1824年6月26日 – 1907年12月17日)が研究していた。マクスウェルはその電気緊張状態を理解するべく数学的定式化を導入した。1861年、1862年に分けて発表された、これを記した論文『物理的力線について』で初めて「場」が語られたのだった。その中で彼は、自身の思索の変遷を示し、この見解へのトムソンの賛同を得た。電気は直線的、磁気は回転的であったのを勘案して、彼は磁気力管を回転するものとし、隣り合う回転が打ち消し合わないよう仲立車を導入した。この仲立車は微小で、角運動量を持たずに回転し、抵抗によって熱を生じる。このモデルは静電気をも説明しうる。そしてこれは電磁気と光を同一視するモデルであった。
結果的に電磁気の場と、光の満たすべき方程式が一致したために、まず速度が求められた。実験結果からも光は電気、磁気現象と同じ媒質の横波であることが示された。そして彼は光と電磁気現象は方程式が同じなだけでなく、現象が全く同一のものであると結論づけ、著書『磁場の動力学理論』で電気、磁気、光を統合した。これをのちにアインシュタインはニュートン以来の偉業だと賞賛した。マクスウェルは19世紀最大の科学者であると言えよう。
3、まとめと感想
粒子の物理学と場の物理学は、古代における物質とエーテルのそれに対応する。理性が実験的に原子を扱い、想像力が非実験的に場を扱った。マクスウェルが物理学は代数的、幾何的な側面を持っていることを知っていたことが、彼の優れた点だった。彼はそれらが統合されることを空想していた。しかし彼は物質とエーテルとを、どちらかに限ること無く、二つを並べて考えたところも素晴らしい点である。
今回調べるにあたって参考にした文献はギリスピー著の『客観性の刃』である。と言うよりも、その文献の第10章を読み、まとめたにすぎない。だからこのレポートは、毎回のゼミでレジュメを作って来たのと同じことをしただけになってしまった。この文献の他にも、たくさんの資料にあたることができたら、よりよかったかもしれない。しかし科学しについて全く知らなかった私にとっては、かなり刺激的な読書体験になった。
この本をまとめるに当たっては、章をまず小さな節(星印で区切られた単位)に分けて、またその中での各段落毎に主題を探して、それを並べる方法を採った。その各段落毎のまとめも、このレポートの末尾に載せる。
ゼミに何回か欠席してしまいたいへんもうしわけないです。感想としては、読んだ『物理学と神』の文章よりも、ギリスピーの著の方が私の知りたかった内容に近いと思う。『物理学と神』は少し「神」に触れることで論調が誇大になっていたりしたのが鼻についたかなと思う。全体を通して知識を深められ、多くを知ったのでたいへん面白いゼミだったと思う。
4、段落毎の主題
(※ 転載に当たり,節 (= 段落の集まり) の趣旨を推定して,括弧内に追記しました)
- 第1節 (光学の勃興?)
- 熱と光の正体への関心は高いものの、結局歴史的には光の研究がはやった
- カルノーは熱と光の類似性と相違との矛盾を指摘した
- ヤングとフレネルは異なる背景を持ちながら時代を同時にして光の波動説を提唱した
- ヤングはニュートンの思想を練り直し、光と熱に付いて考えた
- フレネルはニュートンに反駁し、光や熱は振動によると考えた
- 二人は同じ結論を得、フレネルはヤングの理論を数学的証明により定式化した
- 歴史的には二人を対等に扱うが、ヤングがいなくてもフレネルは結論まで至っただろう
- 第2節 (ヤングの業績?)
- ヤングは自力本願な人物で、大冊である『自然哲学講義』を著した
- ヤングは非常に博識、勉強熱心で、光の波動説についての研究を行った
- 生理学から物理学へ転向し、光の研究をニュートンに倣って行った
- 薄層の色に関するニュートンの実験を綿密に調べた
- 第一の論文でホイヘンスの証明を借り、光の干渉実験をした
- 光の干渉に関する論文を著し、理論を確信した
- 屈曲と混成層効果という現象に注目した
- 光の干渉実験についての結果
- 光の屈曲を示した
- 混成層の実験でも理論に有利な結果を得た
- 波動説なら混成層の説明がつく
- ヤングの干渉実験は確立したスタイルを手に入れた
- これだけで光の学問は完成したように見えた
- 連続的な光の波動と、不連続な粒子の運動を区別したのがヤングの功績である
- 第3節 (フレネルの業績?)
- フレネルは理論から始めに学んだ点でヤングより優越がある
- フレネルはこういう人と同世代であった
- フレネルは『著作集』を著し、波動説の理論付けを行った
- 波の震央を考え、計算式を用いて光の干渉を再現した
- 干渉縞の双曲線軌道をも計算し予測した
- 1818年にアカデミーは光学に関する二つの問題を言った
- フレネルはそれを解決する論文を書き、理論の正しさを示した
- 光の伝播理論はエーテルの運動から生じるいかなる結果も含むと考えた
- フィゾーが実験的にその仮説を証明し、光の速度に関する知見を得た
- フィゾーとフーコーは光速が水中で遅いことを示し、光の粒子説にとどめを指した
- フレネルは光の横波の概念を導入した
- 偏光が光の波に関して問題だった
- アンペールの『互いに垂直な振動』の案を採り、フレネルは定式化した
- そのモデルの原理に関してフレネルも理解できていなかった
- 波動説をまとめる理論の発表の前に自分を納得させる必要があった
- 双軸結晶の屈折諸効果の予言の成功で自信を得、理論の完全性を目指した
- フレネルは三つの平行な粒子の列、というモデルを考えた
- フレネルは三次元輻射光線の束を解析しようとした
- それぞれの仮定は現象論の法則に則った
- 彼は光学を力学から引き離したが、ヤングによるとエーテルは個体であることになる
- 第4節 (ファラデーの業績?)
- ファラデーはとても几帳面で、論文すべてに通し番号を振るほどだ
- 幼少期に物事を深く考える癖が身に付き、科学より哲学の語を好んだ
- デーヴィーに弟子入りし、実験助手として働いた
- 1820年代は化学を研究した
- 彼は鋭い直感力得を持ち、書では読者の要求に応えない
- ファラデーが数学を知っていれば、より進んだ発見ができたかもしれない
- 理論ミスをしないところが彼の素晴らしさだ
- 場の感覚を持ち合わせた
- 1831年に変圧器を発明した
- 10年前の1820年頃から電磁気学が生まれた
- ファラデーは電気から磁気を誘導するなら、逆もあるはずと考えた
- 初めは失敗したが、後に化学的でない電池の発明に成功した
- 電気、磁気、運動は互いに直交し、一つを固定すると残りの一方は他方を誘導する
- 各種の電気を統一し、電気分解という語を生んだ
- 電気分解の研究で彼は想像力の真骨頂を発揮し、無能力によって新概念を得た
- 陽極、陰極の語の由来
- 電気を粒子と見なしたが、他の理論との不整合に悩んだ
- 彼の理論の曖昧性にこそ彼の物理観が見える
- 1841年に50歳で過労で倒れたが、妻の看病の末、二年後に研究に復帰した
- それから彼は電磁気が重力とも関わるであろうという発想で理論を展開した
- ファラデーは結晶の研究も行っていた
- 1830、1840年代には力線を方向の表現としてのみ扱っていた
- 図式によって示される磁気は理解しやすい
- 1844年に、電磁気の媒質の条件を正当に記述できない問題について発表した
- 原子論が正しいなら、物質と空間は別である
- 一般に化学や物理の諸現象が力の諸中心であると認めていたが、認めたくなかった
- 物質は全空間を満たしていると考えた。また無教養ながら原子と連続体の矛盾に至った
- ファラデーの最終見解には賛同が多くなかった
- 場の概念まで後少しであった
- 第5節 (マクスウェルの業績?)
- マクスウェルは直感によらず、数学的に電気力学を考えた
- 大陸の解析学者は要素を分解したが、彼はファラデー的連続観を数式で表そうとした
- 1856年に『ファラデーの力線について』を著した
- ファラデーの概念を数式化できたのは彼のスコットランド気質のためであろう
- 光に関しては二つの相容れないモデルがあることを明記した」
- 当面、空間の力線の連続性と電磁気的諸効果の成立する諸状況との問題があった
- ファラデーの力線とは全空間を線で満たすモデル
- 観測された性質を詰め込んだ想像上の流体を提唱した
- その流体を詳細に定義し、数学的解析の対象としてさらした
- 逆説を次々に思いついたが、ファラデーに反する解釈はしなかった
- 電気緊張状態というアイデアを理解するために数学的表現を導いた
- 彼の第二の師、トムソンは電気緊張状態を既に研究していた
- 1861年、1862年に分けて発表された『物理的力線について』で場は初めて語られた
- 思索の変遷を示し、トムソンの賛同を得た
- 電気は直線的、磁気は回転的であったのをファラデーは見つけていたが、彼は後述した
- 諸法則を適用し、磁気力管を回転する物とした
- 隣り合う回転がつぶし合わないために仲立車を導入した
- 微小な仲立車を想定し、角運動量を展開せず抵抗によって熱を生じる
- このモデルは計算可能で、静電気をも説明できる
- 結論として電磁気と光を同一視することになった
- 電流を、膜のゆがみとした
- 理論的に電磁気の場と光の満たすべき方程式は同じで、そこから速度が求められた
- 実験結果からも、光は電気、磁気現象の原因と同じ媒質の横波である
- 方程式が同じなだけでなく、現象が全く同一であると結論した
- 『磁場の動力学理論』で、電気、磁気、光を統合し、重力のみを残した
- 方程式
- アインシュタインはニュートン以来の偉業だと賞賛した
- 当時は現在ほど洗練された方程式系ではなく、彼の興味の範囲は明確だった
- マクスウェルはすごい
- 第6節 (古典物理学の完成?)
- 場の物理と粒子の物理は古代のエーテルと物質のそれに対応する
- 理性が実験的に原子を扱い、想像力が非実験的に場を扱った
- マクスウェルは1860年からの5年間に、最も創造的な研究をした
- マクスウェルは土星の輪や気体分子運動論を研究した
- 気体分子運動論は化学の分野であるが物理的な観点からの考察をした
- ベルヌイが気体分子運動論の創始者である
- へラパスは有効な公式を導き、クラジウスがそれを掘り下げた
- クラジウスは分子が平均速度で拡散しないことを見つけ、平均自由行程を考えた
- マクスウェルがこのとき登場し、気体分子運動論に新しい解析的アイデアを持ち込んだ
- 速度分布の研究を始め、確率の概念を用い統計力学を始めた
- マクスウェル分布関数はまだこの当時は無い
- マクスウェルの方程式はストークスやゲーリュサックによって確からしめられた
- 単原子分子理想気体以外では理論値は大きく外れた
- 場の理論での流体モデル捨て、別の定式化で粘性は密度に依らない気体を発明した
- 新しいアイデアはファラデーから得たもので、ボルツマンを感嘆せしめた
- 電磁気で場の概念を、気体分子運動論で粒子の概念を使い分けた
- エネルギー保存に依った理論を展開したために、熱の第二法則に反する案を得た
- 幾何的、代数的な物理観を理解していた
- その利点、欠点を知っていたと言うこと
- しかしそれらが統合されることを空想していた
- マクスウェルとニュートンのエーテルは異なり、後者は無くても物理に影響が無い
- 前者は電磁気に関わることが分かるが、実態は分からない
- 現代ではエーテルは区別できない(=無い)と思われている
- しかし当時、原子とエーテルを並べたマクスウェルは古典物理の最後の監督である
