戦後新略字と JIS 漢字コードが過去の日本との通路を絶つ?まさか! – 『漢字と日本人』評

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実に消極的で頼りない主張だ

高島俊男氏が著作『漢字と日本人』で述べたことは、あとがきで以下 2 つに要約される。こと 2 点目についての氏の考えは、実に消極的で頼りない。「 寄って立つところは過去の日本しか無い」との前提も極めて脆弱ながら、帰結される「過去の日本との通路を絶ってはいけない」も軟弱な悲観論だ。

よんでいただければわかるが、わたしの考えは、まず第一に、漢字と日本語とはあまりにも性質がちがうためにどうしてもしっくりしないのであるが、しかしこれやってきたのであるからこれでやってゆくよりほかない、ということ、第二に、われわれのよって立つところは過去の日本しかないのだから、それが優秀であろうと不敏であろうと、とにかく過去の日本との通路を絶つようなことをしてはいけないのだということ、この二つである。

漢字と日本人

氏は「筆写字体と印刷字体とをおなじものにしようとしたのが戦後新略字であったが、これがまちがいであった」と指摘する。なぜなら戦後新略字は、日本人が寄って立つべき過去の日本との通路を絶つと氏は考えるからである。僕は全くそう思わないが、まず戦後新略字の問題を整理しておこう。

漢字と日本人

戦後新略字で起こった字形衝突

かつて筆写字体はしばしば略記されたが、それは正式なものではなかった。门󠄀 と書く人がいても、それは の字を知らないわけでも、门󠄀 こそ正字だと主張しているわけでもない。単に文脈から であると明白なので、その文脈に限って略記したに過ぎない。

戦後新略字は、これらの略記を正字として格上げして採用した。そして JIS は、略した字 ( など) が略さない字 ( など) を「包摂」すると考えた。その結果、 の “略字” ではなくなった。これからは と、 と書くのが “正字” であるということになった。

略字を正字としたことで字形衝突が起きたが、これが戦後新略字の欠点だと氏は指摘する。字形衝突とは、複数の字が同形で区別できないこと。本書は例を挙げ「字形衝突で過去の文書を読み解けなくなり過去の日本との繋がりが絶たれるから、戦後新略字はいけない」と論じる。

衝突字形元からこの字形略記してこの字形
(ウン、くさぎる) (ゲイ、わざ)
欠 (あくび)缺 (欠ける)
余 (ヨ、われ)餘 (あまる)
予 (われ、あたえる)豫 (あらかじめ)
本書で述べられる字形衝突の例

戦後略字 (当用漢字新字体) がおこなわれて五十年以上がすぎた。いまでは、新字体実施以前の書物も、そのほとんどが新字体に変えて刊行されている。古典文学作品や歴史資料もそうである。そのために不都合がおこっている。[…] その際最も不都合なのは、二つ (ないしそれ以上) の字をあわせて一つにした文字である。

 「余」と「餘」、「予」と「豫」、「台」と「臺」などもそうである。いずれももともと「余」「予」「台」があるところへ、それをまた「餘」「豫」「臺」の略字としたのである。現代の生活はそれでもよいが、むかしの書物では、いっしょにするのは不都合である。たとえば「余は」は「わたくしは」であり、「餘は」は「そのほかは」である。

古典文学や歴史資料などを戦後字体に変えて本にするというのがそもそもまちがいなのだが、どうしてもやるなら、すくなくともこうした問題にだけでも注意し適切に処理しなければならぬのだが、それをやっていない。

漢字と日本人

文化の靭やかさを信頼しない臆病さ

漢字文化は氏が考えるよりも靭やかで逞しく、字形衝突などで過去との繋がりは絶たれない。なぜなら字形衝突は、何も今に始まった問題ではないからだ。漢字の字形は常に変化し続けていて、字形はたびたび衝突してきた。

例えば字形衝突は唐代にも存在した。唐の学者 顔師古は、「おそれる」を意味する が「誘」を意味する の異体字として用例があると指摘したそうだ。これを現代の我々が知りえていること自体が、字形衝突が過去との通路を絶たない証拠の一つだろう。

【意味不明】見かけは全く同じだが、実は別の漢字「字形衝突と同形異字」とは【ゆっくり解説】 – YouTube

いくらか字形が崩れようが、同形異字が起ころうが、過去の文化との繋がりは失われない。3300 年の歴史を通じて、漢字は常に形を変化してきた。現代の漢字からは似ても似つかない甲骨文字との繋がりすら理解されているのに、戦後新略字ほどの変化でどうして文化が断絶しようか。本書に述べられた論は杞憂と言ってよい。

【漢字雑学】漢字の歴史 ~甲骨文字から楷書までの3300年~ – YouTube

JIS を文化継承のガンとする氏の詭弁

戦後新略字とあわせ、氏は JIS による文字のコード化も文化の継承を阻むと論じる。戦後新略字で新字体に「包摂」されたせいで、コンピュータに などの異体字を入力できないことが根拠のようだ (否、入力できます)。

たとえば人が「德川幕府」と書きたいと思っても JIS には「徳」しかないのだから「徳川幕府」でがまんするほかない。西鄕隆盛と書こうと思っても JIS には「郷」「隆」しかないから「西郷隆盛」と書くほかない。上に言ったごとく、德、鄕、隆は徳、郷、隆に「包摂」されている、と JIS は言うのである。現在の機械の能力をもってすれば正字を入れることは容易なのだが、JIS はそれを拒否しているのである。[…]

しかし、文化としての文字をこんな連中にまかせておいてはならない。だいたいが工業技術者であるから、ことばや文字に見識があるわけでも愛情があるわけでもない。工業技術の対象としてしか見ない。拡張新字体をどんどんつくって番号をあたえ、正字を抹殺してしまったのがこの連中である。

文字は過去の日本人と現在の日本人とをつなぐものであるのだが、こうした人たちはそんなことはすこしも意に介しない。いま文字を使う人、それも官庁や会社の実務で使う人のことだけを念頭において文字を管理している。文化資産としての文字を JIS の手から解き放つことが緊急の課題である。

漢字と日本人

4 つに整理される氏の認識不足

上に引用した箇所の問題点は、ざっと 4 つ挙げられる。もっとも上の文は、氏自身もきちんと検証しないまま怒りに任せて放言した無責任な考えと見えて、論の脆弱な箇所はきっと他にもあるだろう。

(1) 文学者でも誰でも、ことばや文字に見識と愛情のある人が「文化としての文字」を継承すれば良い。漢字文化がこれまで工業技術として継承されてきたわけでもないのに「文化としての文字」に JIS が責任を負うと考える氏の見識は、的外れで論外だ。

そもそも、氏は「文化資産としての文字を JIS の手から解き放つ」などと書くが、文化資産としての文字を JIS に譲り渡した自覚があるということだろうか?もし譲ったのであれば、不平を言う資格はない。しかし、もとより「文化資産としての文字」は文学者などの手中にあるのではないのか?

(2) JIS を始めとした工業規格の趣旨は、標準化と規格化にある。漢字自身の多様で豊かな歴史的背景を十分認識しつつ、同義と考えられる字を集約して標準化するのは工業規格として当然だ。工業規格たる JIS が「工業技術としての文字」を扱うことに、何らおかしいところが無い。

(3) 仮に JIS が圧倒的な強権を持ち、文学者を含むあらゆる人から戦後新略字以外の使用を不当に禁じて奪ったとしても、文化は途絶しない。例えば秦の始皇帝は、かつて他の地域で使用された字を禁じ、秦の漢字に基づく篆書や隷書を全国で使うよう定めたが、我々は秦以外の漢字の存在を継承して知っている。そして、実際には JIS にそのような権限や権威はない。

(4) 異体字は次々と Unicode に取り込まれ、コンピュータ上で使用できるようになっている。実際には、氏の望む世界にどんどん近づいているのだ。Unicode は JIS と別の話で、かつ比較的新しい動きであるから、氏の認識不足は責めるに及ばないが、ともかく氏の指摘が該当しないことは事実だ。先の引用でも はすべて問題なく入力し、表示できる。

しかし、好奇心を刺激する興味深い話題の多い良書!

ここまで『漢字と日本人』の結論の脆弱さを指摘してきたが、僕はこの本に大いに満足した。満足したからこその、ここまでの長大な批評だ。そして上に述べた反対意見の他に、大いに勉強になった/賛成したい考えもたくさんあった。以下ではそれらを簡単に紹介する。

  • 漢字伝来以前に存在したとされる日本固有の文字体型 神代文字は、極端な右派による捏造だそう。まあそうだろう
  • やまとことばの表現力が乏しいのは、言語の発達の早い段階で漢字が入ってきてしまったからだそう。そのせいで「晴れ」はやまとことばで言えても、「天気」を指す言葉は発明されず、漢語の輸入に頼った
  • 漢語は 2 字で収まりが良い。そのため似た意味の字を繰り返す熟語が多い。負担、皮膚、福祉、破綻、拿捕、…。これは漢語では都合が良いのだろうが、日本語にとっては不要な重荷である
    • 奈良の朝廷はその慣習に倣って国名を名付け、和泉は余計な和をつけられたり、播磨はリを表す字が省かれたりした
  • 漢語の音が p、t、k で終わるものを入声 (にっしょう、Wikipedia) と言う。日本語は子音で終わるのが苦手なため、何らかの母音をこれらに追加した。
    • 追加の仕方に揺れがあり、一番 (イチ) や統一 (イツ)、律儀 (リチ) や法律 (リツ) などが分化した。倒立 (リツ) と建立 (リュウ) なども同じ由来だそう。
  • (これは僕の感想) 西洋の言語学が音声に偏重して文字や表記を軽視したのは、まさに各国語に固有の文字体系を持ち得なかった劣等感の裏返しと思うと味わい深い

字形整理は合理的。標準化を推進すべし

ところで、僕は漢字は無意味な違いに寛容であるべきと考える。先程登場した と区別することに、どれくらいの価値があるだろうか?こうした僅かな字形の違いの由来は、所詮は先人の覚え間違い、書き損じ、あるいはただの書き癖に過ぎない。漢語として異なる意味を担う別の字ならいざ知らず、同じ語を意味する同じ字だ。区別する価値はほとんどない。

個人の書き癖程度のものに正当性を与えて、それぞれを逐一権威化してはキリがない。例えば僕は「建てる」の字の縦画を長めに書くのが好みだが、これを表すための文字コードを要求したらどう考えても不当だろう。

スラッと伸びる縦画の美しい [建]

文字も言葉も、時代を経て変化する。それは草の根の自然発生な変化かもしれないし、時の権力による強制的な変化かもしれない。いずれにせよ、文字も言葉も変化を免れない。そうした変化を吸収し、標準化していくのが文明の努めだ。

もちろん変化の歴史自体には価値がある。それらを記録し、解読し、後世に伝えるのは文化的に重大な価値がある。しかしそれと字形標準化の営みを混同してはいけない。

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