社会が規定する行動原理

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これは,2011年,当時 大学4年生だった僕が授業「社会学基礎」の課題レポートに書いた文章.論理に擁護しがたい飛躍があったり,考察がステレオタイプの復唱に過ぎなかったりして,よくできたレポートとは到底言えない.特に「避難」を「非難」と誤字るのは課題提出物として看過できない稚拙さだ😭

でもその稚拙さは時効 (?) として目を瞑って,記録の目的でブログに掲載する.今回は原典を尊重して基本は原文ママで掲載している. 見出しだけは新たに振りました. ただでさえ論旨の見通しが悪いので,せめて見出しで理解を助けられればと思いまして.

  1. 東日本大震災
  2. 集団主義と個人主義
  3. 集団主義と互助
  4. 個人主義と自助
  5. 社会が規定する行動原理

では,以下がレポートの内容です…


今回のレポートの課題は、今年の3月、福島県や宮城県を中心に、東北地方やその周りの地域に多大な被害をもたらした東日本大震災と、その地震によって引き起こされた福島第一原発事故による社会的混乱について、各自関心の高いテーマを設定し、社会学的に議論せよということである。

そこで私は以下のようなテーマについて考えてみることにする。「日本人と諸外国人、主に欧米人の思想の違いによる行動の差と、その影響、是非」これは今期、私は橋爪大三郎先生の宗教社会学という講義を受けたことから非常に大きな影響を受けている。主に思想の違いから生じる行動の差を議論してみることにより、このたびの悲惨な震災を分析してみたいと思う。

東日本大震災

まずこの震災についての大まかな概要をおさらいしてみる。事の発端は2011年3月11日、およそ午後2時45分に起きた大きな地震が始まりである。震源は宮城県牡鹿半島の東南東沖130キロメートルの海底であると推定されている。日本では観測史上最大となるマグニチュード9.0を記録し、場所によっては高さ10メートルを超える巨大な津波もこの地震によって発生した。

また、破壊的な震度により海岸線近くでは液状化現象や、地盤沈下、またはその両方なども発生し、ダムや道路、鉄道線路の欠損、水道管の破裂なども広範囲で起こったことが確認されており、ほぼすべてのライフラインが絶たれるという地域も少なくなかった。

簡単に記すだけでこのような甚大な被害が生じており、詳細に述べるときりがないといってよいほど大きな被害がある。また現在でもニュースを見ても明らかなように、ほとんど解決していないのが現状で、倒壊した家屋や役場、商店などもいまだに多く瓦礫のまま放置されている。自宅が全壊してしまった市民も非常に多数いて、現在ではプレハブ小屋などに一時的に非難、生活を強いられている。

集団主義と個人主義

ここで、日本人の反応を見てみる。まず大地震が来たときに、一目散に非難をする人は決して多くなかった。周りの人間と大きく違う行動をとることは、日本人的な美徳から外れてしまうからであろう。そのために逃げ遅れた高齢者が、津波によって倒壊した家もろとも死亡してしまったケースが多い。

実際にテレビのニュースでも、高齢者夫婦のうち、奥様が逃げてきていて助かったものの、ご主人が逃げ遅れてなくなったという事例を扱っていた。奥様がテレビ側のインタビューに答えている場面では、奥様はご主人に逃げるよう説得していたのだが、ご主人は逃げなくても平気だと硬く確信していたようでまったく動じなかったようだ。ご主人の気持ちを察するのは容易ではないが、少なからず、自分の家が倒壊してみようものなら自分もそのときは一緒なのだ、という自暴自棄な心境があったのかもしれない。

ここでアメリカ人的な思想を持った人間ならば、どのような行動をとったと考えられるだろうか。アメリカは万人が平等であるという思想が強く、チャンスも平等に分け与えられていて、抽象的に表現すれば「果実は客観的に見て妥当に配分される」というのが尋常である。つまり我先に、と行動した者から先行できるし、遅れをとった者は手に入れられない、というシンプルで分かりやすいシステムを前提に生活している。それが個人主義の根幹であるから、当然である。日本では「みんなは同じ。僕らは日本人」という思想が根幹であり、先行や遅れといった概念よりも、年功序列のような、古来の考えを重視しているから、やはりアメリカとは異なる。

アメリカ人ならば、周りと異なることは美徳に反することではないのだ。だから一目散に逃げることが正義だと思う人からどんどん逃げるし、逆に逃げなくてもよいと思う人は、周りがどうしようと逃げないのであろう。ここで重要なのは、周囲に合わせて行動をするか否か、という点である。日本人は基本的に全体との調和を意識する傾向が強いために、一番手、ヒーローということからは遠のいている印象がある。

つまり思想の差異によって、非難に際してこのような違いが生じていたのだろうと思う。日本人は周囲に合わせることを好むため、多くの人間がまだ非難していないうちはまだ安全と思い込む傾向が強い。そしてその間は避難が遅れることもある。しかし全体での行動方針が固まり、大きな流れとして非難が始まるとその勢いは、他の個人主義的思想の諸国民と比べて、非難のスピードは格段に上がる傾向がある。

集団主義と互助

そして津波が来たときについての分析を考えてみる。現地住民の行動は非常にすばらしかったと思う。お互いに声を掛け合って、高い土地へ逃げるように周囲の人間へ言っているシーンを覚えている。報道で頻繁に放映されていて印象的なのはNHKの取材による映像である。南三陸町の映像で、津波が猛威を振るい始めるまさにその瞬間から録画が始まっており、太平洋の沖のほうから大きな波がゆっくりと接近して来る映像と共に、地域住民たちが声を掛け合っている状況が聞き取れた。周囲の人たちに高いほうへ逃げるよう声を掛け合っていて、それまでは非常によかった。

だが、一つ問題があるとすると、やはり津波が完全に街中に侵入し始めたときであろう。身近な物質である水が、毎日見ている海が、突然表情を一変させて恐ろしい一面を見せているとき、やはり住民たちは茫然自失で身動きを取れなくなっていた。もちろん私が言いたいのは、自分の街がどのように悲惨に破壊されてしまおうとも茫然自失となることなく、非難の二文字のみを追い、自分や他人の命を救え、と言いたいのではない。誰でも自分の住みなれた、見慣れた街が見るも無残に破壊されてしまうシーンを見ては茫然自失に陥ってしまう。対策はない。

こればかりは人間であれば仕方のないことであるから、先手を打っておく必要を感じる。つまり早め早めの非難。これに尽きるのではないだろうか。先述の集団主義的思想を持つ日本人は、早めの非難行動というのはなかなか難しいのではないだろうか。やはりリーダーシップを執れる人材が有事の際は必要だろう。しかし、それこそ個人主義的思想の持ち主を指揮するよりも負担は少ないであろうし、しっかりとしたリーダーを持つとき、日本人の国民性は災害時に強いといえるのではないだろうか。

個人主義と自助

他にニュースなどで見た印象深い記事としては、避難生活者を対象にした配給のシーンのことについてである。避難生活では物資の調達がままならず、また避難者も着の身着のまま家を飛び出した人が多く、生活するのに必要なものを何一つ携帯していなかった人が多かった。それはもちろん食料を始めとして、衣食住の基本的な備えがなかった。つまり着替えや寝る場所がなかった。そしてインフラは寸断されてしまったために情報を得る手段は限られており、しかしラジオを持ってきている人も多くないし、持っていても電池の予備までたくさん持ち歩いている人はそうそういない。携帯電話は通じなかったし、自動車での移動も不可能だったし、連絡をとる手段もなく、とりあえず近所の学校や区民館に多くの避難者が集まった。

そして食料や靴などの配布が始まったときに、彼らは規則正しく行儀よく列を作って並び、順番を待って配給を受けたという。私がその場所にいたらどういった行動をとるのか、想像することは非常に困難でもあるが、同じように列を作り、順番に配給を受けたであろう気がする。これは非常に日本人的であり、世界的に見てもまれに見るすばらしい状態であるとの声がある、という記事を見たことがある。

他の諸外国人は、繰り返しになるが、欧米の人間を中心に個人主義的な思想の持ち主である。そして個人主義では自分は自分、他人は他人、であるからして配給をもらうのも自分の仕事である。そしてもしも配給が不足し、自分の目の前でなくなるようなことがあれば、それは自分で責任であり、調達するのは自分の役割である。

しかし日本人の思想では、私たちはみんな一緒、という意識の下である。配給がなくなるようなことがあれば、それは私の責任ではなく、私たちの責任となる。つまり、考えることは、自分で調達できなかったことが失敗なのではなく、全体に足りない分しかなかったのが失敗となる。ここが大きな違いを生むのである。

結果として、日本人が考えるのは、もし足りなかったとしてもそれは私の責任ではないし、つまりはいつか誰かがまた用意して持ってきてくれるはずに違いない、という確信がある。アメリカ人では、ここで配給が足りなくなったら自分で調達するしかない、じゃあ誰かがもらう前に自分がもらわなくては。と考える。そして奪い合いの惨事につながる可能性があるのである。

社会行動の文化差

日本人はなぜ安心して、順番を待っていられるのか。それはやはり思想の違いからくる、「責任の所在はどこか」に関する意識の違いが大きく関係しているのではないかと思う。

しかしここで、どちらが正しいとも言い切れないし、どちらがよりよいとも言い切れないことを注意しておく。なぜならば、配給の個数は実際的には有限であるから、誰かに配ってなくなってしまう、ということは実際にありうる。それについてなんの不安感もなく、ただ与えられるだけに甘んじていてはいあけない。能動的に何かを得られるように行動をしないといけないし、それが本来的な姿勢である。本来的なとは、文化に染まりきらない、文化に飼いならされないような思想である。簡単に言うと、より動物的志向といえるだろう。

しかし動物的志向だけでよいはずはない。もちろん配給は有限であるが、自分の利益だけに、目先のことに囚われて全体の利益を損なうような行動は倫理的でない。倫理とはあいまいな言葉であるが、ここでは文化に飼いならされた、と言い換えてもいい。動物的な志向だけに寄らず、かといってあまりのんきにもなりすぎず、有事の際は注意を最大限に払う努力が望ましい。

ここまでかなり抽象的で、ある意味では分かりにくい、「思想の違いによる行動の違い」を論じてきた。社会学的な見地、としては弱いかもしれないが、思想と絡めておおむね分析的にこの震災の初期行動を見ることが出来た。個人主義的な行動原理と集団主義的な行動原理、どちらか一方が優れていて、もう一方が劣っているとは思わない。どちらの要素も非常に大切であり、重要なのはバランスである、何事も程度問題である、という意識の下で行動できるのが理想的なのではないだろうか。人間科学の基本である社会学からのものの見方というものをさらに磨き、これからより多くの「事実」と向き合っていきたいと思う。

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