成長期➔不況期➔国際化期と、価値観の個人責任は苛烈に

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これは,2010年2月7日,大学3年生の僕が授業「パフォーマンス論」の課題レポートに書いた文章.内容は「成長期➔不況期➔国際化期と、価値観の個人責任が次第に苛烈化している」と要約できると思う.

60 – 80年代の経済成長期の日本の社会は,安定した価値観を規定し人々に提供していた.しかしバブルが崩壊した90年代以降の社会は不安定化し,もはや安定した価値観を提供しなくなった.このような現代では,価値観を規定する責任が「社会」から「個人」へ移りつつある.そして目前に迫ったグローバル社会では,各自が自身に負う責務はさらに苛烈になっていく,というのが主要な議論だと思う.

しかし,そんなことはかなり大胆に深読みしないと読み取れない… というか,もしかすると書いてないかもしれない😭 借りてきた誰かの言葉は不釣り合いに高尚で,考察自体は極めて幼稚.最も端的に稚拙さが滲むのは締め括りの文言.「私自身もできることから一歩ずつ変えていきたいと思った」って,小学生の感想文レベル😇 まさに小並感.議論の見通しを多少でも改善するため,本文の改行位置を変更してます.


1.はじめに

悪魔祓い」の本がなかなか見つからなかったため、代替的な課題として「生きる意味」を読むことを選択し、その感想をレポートとしてまとめることにした。この本を代わりに読むことにした理由の一つに、書店へ足を運びこの本を少し探してみるとすぐに見つけられたことがあり、また他にもインターネットで検索してみても非常に多くの読者レビューが存在し、多くの人から読まれていると判断できたために、この「生きる意味」を読むことに決めた。

2.概要と大まかな感想

社会が「生きる意味」を安定供給していた経済成長期

タイトルから連想されるほど哲学書的な内容が特に多いわけではなく、どちらかといえばむしろ社会論のような趣旨に近いように思えた。現在の社会は不況だと多くのメディア等が頻繁に騒ぎ立てているが、その中でも最も問題なのは人間が「生きる意味」を見失っていることではないかと思う。

資本主義の経済至上主義の社会にあっては何より効率性、合理性が重視される。全体と同様であることに価値を見出し、全体と同様な人生を歩むことが奨励され、さらには教育の場においても仕事の場においても、自分の頭で考え独自の行動をとる人間は歓迎されない。それどころか悪いときには忌避されてしまうこともある。とくに日本人は国民性のためか人の目を過度に意識する伝統的文化があり、他人はどういう判断を下すかといった他人の判断を基準として自己の行動の方針を定める傾向が他国に比較して著しく強い。そうやって自分自身を押し殺してでも個の感情が爆発しなかったのは、そこに経済的利得があったからこそだと考えられる。

社会が放棄した「生きる意味」への責任は個人に転嫁

しかしバブル崩壊後の社会では、利得が失われてしまい抑圧だけが残ってしまった。それが日本社会の現状ではないかという内容のことが思われた。こういう社会にあっては、自分自身をかけがえのない存在だと感じることは不可能ではないにしろ、たいへん困難であることが容易に推測できる。結局、自分自身は交換可能、取り換え可能な存在としか扱われないのだ。高い数字をあげることが、換言すれば結果のみを追求することが己の人生に幸福をもたらすという考え、言ってみれば数字信仰なるものが崩れ去ったのは明らかである。

一人ひとりが「幸せとはどういうことか」「生きるとは何か」といった生きる意味を見出していかないといけないのではないかという現代人の抱える問題を読者に強く提起していたという風に感じた。また別の言い方で表現すると、本書は現代人の抱える苦悩の中にはこれからの展望があるのだと、原点回帰の奨励を示唆していた。不安の背景にあるものを理論で裏付け、一つの仮説を導いていたように思う。

現代人が生きる意味の喪失に悩む理由、なぜこんなにも空虚で苦しい思いを感じて止まないのか。それを戦後の経済成長の終焉によって人々が目指してきた価値観が崩壊したからだと位置づけを行っていた。つまり我々はよりよい学校、よりよい仕事、まわりの人間が望むようなレールに乗ってさえいれば経済成長とともによりよい未来が約束されていたということだ。自分がどうかより他の人が望むよりよい価値を目指すように「潜在的に」強制されていたわけである。しかしその価値観が喪失された今、我々は目指すべき方向性や価値観といったものを自分自身で創造しなくてはならなくなった。それが生きる意味について悩みが生じることとなった原因なのだと分析できる。

グローバリズムの到来でさらに苛烈化する個人責任

この本の中で語られる重要なキーワードは大きく二つ、「かけがえのなさ」と「グローバリズム」であるように感じた。そして本書はこれからの人間の新しく進むべき価値観として台頭するグローバリズムの正体を的確に批評している。端的に言えば、グローバリズムは救済にはならない。むしろ私たちをより深い悩みへといざなうものだと糾弾する。なぜならグローバリズムが前提としているものは、非力で欠陥がある脆弱な私たちではなく、常に勝ち続けることのできるような超人的な人間観に根ざしたものだからである。

グローバリズムは私たちによりよい環境を目指し変化を起こすべきだと強制し続ける。勝ち続けられない人間は市場から敗退するしかなく、救済される術はないのだ。一部競争に勝ち抜く者だけが富を享受する社会の奨励なのである。

3.最後に

人は経済システムの中で代替可能なヒトになったとも表現されている。すでに経済成長の終焉から始まったことではあるが、経済成長のために一人一人の個は抹殺され、自分でなければというかけがえのなさというものが失われることにより、より不安定な個が曝されることになった。元々経済信仰や拝金信仰そのものに深く心酔していた日本人であれば、尚更そこから裏切られることによる痛手というものがあったのだろうかと思えた。グローバリズムはそれをより一層進化するものであるように思えた。そういったグローバリズムが推し進められる中で、チャンスの不平等があったり、一度負け組みに追いやられた者が再起を図れない世の中になったりすれば、そういった人間たちの絶望感や不満はよりいっそう大きくなるだろうとも思った。われわれは、このままグローバリズムの信者となって邁進すべきだろうかという疑念に囚われる。

経済一辺倒の価値観の中でただもがき苦しむのではなく、一人一人が人間らしく生きることができる場を設けようということだろうか。そういった視点においてはこの本は一つの指針を与えてくれるものだった。これからの社会が生きやすいものになることを切に願いつつ、私自身もできることから一歩ずつ変えていきたいと思った。

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