理論言語学レポート「文法知識と語彙知識が外国語学習を成功へ導く」

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これは,20010年頃,たぶん大学2年生だった僕が授業の課題レポートに書いた文章.議論の構成が散乱してるし,結論も最後まで通読しないと見通せないのは,おそらく考えながら書いてたからだろうね.例によって,少しでも読みやすくするために見出しを新たに追加してます.

このレポート論旨を整理して下表にまとめた.外国語学習について述べる代わりに日本語の古文読解を挙げてるのは例として不適当にすぎるし,そもそも語彙知識が役に立つ理由については本文で言及すらしてない (結論部で唐突に導入される… 何でだよ😂).そういうところが本当に拙いよね〜恥ずかし!

論旨要約
問い母国語の習得過程から考える,適当な外国語学習法とは?
結論外国語習得の鍵は「基礎的な文法知識」と「語彙力」の2つである.
これが要旨です

理論言語学のレポートを、母国語以外の言語の習得について考察しながらまとめていきたい。基本的に母国語の習得には親や育てるのに関わった人の影響が大きく発現する箇所のひとつであると思う。例えば私はつい最近まで「試金石」という言葉をまったく知らなかった。それはひとえに私の周りの人間が試金石という言葉を使わなかったことにもよるし、私が読書その他の言語活動において消極的で試金石という単語に出会う機会がなかったせいでもあるだろう。

まず先に母国語の習得について考えてから、外国語の習得について考察することにする。

母国語の習得: 知識に依拠した類推が働く

母国語の上達は基本的に育つ環境、単純に言い換えるなら、家庭で両親が子供に対していかに話しかけていたかが大きく問われるところだろう。多く話しかけることは非常に重要で、子供には意味が分かっていないようでも話しかけ続けることがよいそうだ。子供は理解していなくても、理解しようと努めてはいるのである。ここの差異は小さいようで大きい。

また次の段階としては小学校の国語の授業がある。私たちは小学校で読み書きを習わなければ決して読み書きをすることはできない。読み書きと、話す聞くは、同じ「言語活動」という枠内にありながら、まったく違う知識を要求するものであるからだ。

読み書きは話す聞くができるだけでは成立し得ない技能である。だからこそ小学校で習う価値のあるものとなるのであろう。読み書きという技術を開発してからは、人類は縦にも横にも知識を共有できるようになり、文化や文明の発展に大きく貢献したことは言うまでもないことであろう。そしてこれは母国語、外国語を問わない普遍的な事実でもある。

話す際には知っている単語を正確に並べて発音すれば意味が通る。並べかたは多少の不正確さをはらんでいてもたいていの場合は許容されてしまう。なぜなら聞く側にも同様程度の知識をもっていて、聞き取れない部分は勝手に脳が補正を行い、多少の間違いは意味が通るように解釈しなおしてくれるからである。意味の分からない文章を話されても、なんとか理解しようと努めれば、母国語ならばある程度の把握は困難でない。

外国語の習得: 未知を補う類推の重要性

さてここから外国語の習得について考えてみる。母国語ではある程度の理解のみによって、一部を理解できないとしても、全体を理解することは可能であるように思える。それならばその事実を拡張して、外国語でも文章の一部の理解なしに全体を把握することはできるだろうか。外国語による円滑なコミュニケーションが図れるだろうか。それについて少し考えてみる。もしそれが可能ならば、外国語学習は大幅に軽減できる可能性があるから、このことを考えることは非常に意義がありそうだ。

例えば古文の読解を例に考える。古文は古文なりの文法に従っているが、それを知らずに現代の文法にしたがっているものとして読んでみても大意は把握できてしまう。現代の文法を参照して古文を読むことは、文法的に間違った文章を読むことと同じことである。

古文をそのようにして読んでも完全な理解はもちろん不可能であるし、そのために古典の文法を学習し、完全な理解を得るための努力というものが存在するのである。しかしある程度の意味は分かるし、それ以上の理解が必ずしも必要かといえば微妙なところではある(古文読解のテストではその微妙なところを突っついて理解度を測るため、テスト勉強的に言えばある程度以上の理解が求められているわけであるが)。

つまり大差ない文法間での理解は成し得るわけで、つまり正確な文法の理解は必ずしも必要でない。しかしこの言い方にはかなりの語弊が含まれているため、もう少し付け加えておく。

文法知識が類推を促し,外国語理解を助ける

正確な文法の理解は必要なのであるが、その正確な運用が必ずしも必要でない、と言い換えたほうが正しい。読むとき、話すときに文章のある部分を理解できていなくても、全体を理解することは可能である。しかしその前提として、「概ねその言語の基本を押さえている」というものがある。古文を読む際にも、「日本語の現代文ならば読める」という前提で考えたのと同様だ。

英語の学習で、私は中学、高校と文法をよく習った。そのおかげで今は多少の文章を読みこなすことができる。文法の勉強のみではなく、単語を覚えたり、会話で使える発展的な学習のしてきたが、こと読み書きにおいてはそれよりも文法の知識が役立っている気がする。文法の習得は外国語の習得に必須であるように思う。習得といっても運用能力は問わないといったところだろうか。表現が難しいが、私の体験からいえば「完璧な」文法能力は必要ないように思う。

つまりまとめてみると、外国語の習得において、文法を完璧に理解しきって、その運用すらもネイティブと変わらないほどにマスターする必要はない。しかし、基礎的な文法の知識は依然必要であり、外国語学習において、やはり既存の手段が最適であるように思う。そしてレポート本節では言及しなかったが、語彙力はそれと同じくらい大切である。「基礎的な文法知識(必ずしも完璧な運用能力は問わない)」と「語彙力」、この二つをもって外国語の習得は進められるべきである。

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